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反キリスト教

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キリスト教の中心的思想は、「隣人愛」である。「汝、隣人を愛せよ」、「汝の敵を愛せよ」というあれである。

現在日本に住む人々の多くが、これに近い道徳を持っている。

ただ、日本のそれは土着の道徳ではなく、外国から流入したキリスト教の思想が蔓延した結果、作られた道徳ではないかと考えている。

つまり、日本人の多くは、無意識的にキリスト教を信仰しているということである。無宗教と言いながらも、クリスマスを祝ったり、ハロウィンを祝ったり、教会で結婚式を挙げたりする馬鹿げた行為もその表れだと考えられる。

残念なことに、日本では、キリスト教(派生宗教を含む)を批判している人までが、その思想にどっぷりと浸かってしまっている。

「敵を愛する」という考え方は、自然の原則に反する、余りにも“不自然”なものである。

動物は本来、自分が生きるために他者=敵を喰らう。自分のことが先ず第一で、他人のことは後回し、それが自然である。本来、動物は自分勝手なのである。

これに反し、キリスト教では、他人のためを思うことは「善」で、自分のためを思うことは「悪」であるかのように教える。そして、動物としての本能(性欲、快楽など)を否定する。キリスト教信者でもない日本人も、この考え方に共感する人が多いわけだが、これは日本人の道徳がキリスト教に染まっていることの証左であろう。

また、キリスト教には、「原罪」という教えもある。人間は生まれながらにして負債を背負っているという考え方である。その罪滅ぼしのため、信者は神に心身を捧げるわけである。

だが、この考え方は、非常に危険であるということを認識しなければならない。「自分の身を犠牲にして、他人を守る」ことや、「欲望を抑える」という考え方が、実は“偽善”だということに気づかないことは、余りにも危険である。戦前、日本人の多くがこのことに気づけなかったからこそ、日本人は全体主義に突っ走り、神風アタックを正当化してしまったのである。

「貧しい者、病める者は、裕福な者達よりも幸いである」と教えるキリスト教の本質は、ルサンチマン、即ち奴隷道徳である。負け犬が自らの存在を正当化するための思想である。そのルサンチマンを巧みに利用しているのは、バチカンなどの巨大資本を保有する富裕層である。

本来、動物の世界には生態系という秩序がある。その秩序は、生物の個体差で創り出されるものである。

だが、同じ動物でも、人間の生態系は、個体差ではなく、カネの大小による部分が大きい。カネの大小で富裕層と庶民が分けられる。

このカネの大小を生み出すために必要なものが、キリスト教によるルサンチマンなのである。「自己犠牲は善。自己主張は悪」という洗脳によって、自ら負けを認めてくれる奴隷を育てることで、富裕層は富裕層の地位を得ることができるのである。そして、富裕層は、愚かな奴隷たちを、自爆する“駒”として金儲けに利用するのである。


極左政策を行ったファシスト、ヒトラーはカトリック信者である。日本を戦争へと誘ったファシスト達にもカトリック信者が多く見られる。A級戦犯も含まれる彼らは、戦争中に日本の若者たちの命を散々“消費”しておきながら、戦後は知らぬ顔して慈善事業という名の偽善事業を行っている。バチカンと手を組みながら。



また、日本の全体主義を助長した“隣組”という制度は、今も“町内会”として存続し、赤十字=キリスト教の募金を住民から“回収”している。なぜ皇室のカトリック組が赤十字の名誉総裁を務めるのかは、考えてみれば簡単なことである。

さらに、地方で今なお“消防団”という全体主義組織が残っている。表向きはボランティアということになっている消防団だが、「自分のためは悪。他人のためは善。」、と調教された日本人には、消防団の加入を断れない人も多い。そして、あの東日本大震災では、多くの消防団員が「助け合い」を心の拠り所に、海に散っていったわけである。これを美しいと思える日本人は、キリスト教徒以外の何者でも無い。バチカンが、キリスト教国でもないはずの日本を重要視する理由も分かるというものである。

畢竟、キリスト教 (派生する一神教も含む)とは、全体主義を生み出すためのインキュベーターと成り得る存在なのである。

人間も所詮は動物である。だから、自分の欲望のために動くことは、決して汚らわしいことでは無い。これを汚らわしいと思うからこそ、キリスト教というルサンチマンが加速していくのである。「他人のため」の行動は、実は「富裕層のため」の行動に過ぎず、奴隷制度を肯定していることに気づかねばならない。

生きるということは苦悩と絶望の連続だが、そこから逃げようとしてはいけない。自然の動物は最期の最期まで決して諦めない。自分にまだ牙が残っているのなら、自分の欲望を満たすため、本能のままに動くべきである。「他人のため」など、奴隷の自己肯定の言葉に過ぎないのだから。

とは言え、そのような思想を完全否定する心算も無い。世の中にはそのような思想無しには不安で仕方が無い人が存在するのというのもまた事実なのだから。(参考:反共)

2015年4月4日追記

「馬鹿と片輪に宗教、丁度良き取り合わせ」

福沢諭吉の言葉である。福沢は、自らは無神論者だが、民衆の支配には宗教が有効であると説いているのだ。福沢が言いたかったことは、まさにこのページで述べているような“必要悪としての宗教”(反共のための宗教)だったのではないだろうか、と個人的には解釈している。

余談だが、一万円札を聖徳太子から福沢諭吉に変えたのは、親米路線でレーガン大統領と「ロン・ヤス」の関係を築いた当時の中曽根首相である。「脱亜論」を唱えた福沢諭吉を起用したのはおそらく、真っ赤な大陸との縁を切り、赤狩り(マッカーシズム)とレーガノミクスで経済を復活させた米国に日本も追随するぞという意気込みの表れだったのではないかと推測している。

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